昭和41年04月10日 朝の御理解



 おかげもあるもなきも和賀心、と仰せられるのでございますから、いつでもどんな場合でも、自分の心の中に、和賀心を頂かせて貰う事に専念しなければなりません。専念するということはどう言う様な事か。いつも自分の心の中に、どのような場合でも、どんな事柄の場合でも、自分の心の中に和賀心。和らぎ喜ぶ心を頂かせてもらうことに、専念すると。それが私信心だと思うのです。
 ところが私共の心の中に、専念しておるようでありましても、些細な事が心にかかって心が曇ってしまうことがある。たったこの位の事がと思うようなことが、イライラするような、元になっておったりすることもある。ね、このくらいの事で腹が立つ、と言う様な事がある。結局和賀心の欠如を知らなければいけん。そういう時に和賀心を願わせてもらう。専念させてもらう。昨日ある方から電話が掛かってきた。次々とまぁその方にとっては難儀な事ですね。
 私、私はそれを聞いておりますと、あぁおかげを受けておられるな、思うのでございますけれども、その人にとるとやっぱり、難儀な事であります。しかもそれが手を変え品を変えしてその、その難儀が、まぁ付きまとうように、ここ毎日、その事で悩んでおられます。お商売の事で、人間関係のことで、家庭問題のことで。もうおかげ頂きまして、今日はお参りさせて頂いてよかったと、もう心がスッキリしました、おかげ頂きましたと言うて帰られると、もう何時間後に電話が掛かってくる。
 昨日私その電話を受けさせて貰いましたら、やっぱり同じ様な問題で、又難儀なやっぱりその方にとっては難儀な事なんです。はいはい承知しましたお届けさせて頂きましょうと私言うたら、先生そげなこと言わずに、何かひとこと言うて下さいて言われるです。電話で。自分の心の中にです、本当あのすきっととするものを頂きたいわけなんです。その電話で何かひとこと言うて下さいと言うてもね、とっさにそんなに、その人の心を和らげるような素晴らしい、その名台詞というものがでるもんじゃない。
 それはどのような素晴らしい御教えがありましても、その教えをね頂いた、その時それを頂いたからというて、心の中にそれが響いていくとは限らない。ね、子供の笑い声聞きよっても、場合によっては子供の泣き声聞きよっても、自分の心がスッキリすることがあるのですから、お繰り合わせを頂かなければ出来る事ではないのです。ほんとに私はその方の為に、同情も致します。そして電話を受けさせて頂きよりましたら、あのどう言いますかって私、何でもいいからひとこと言うて下さいとこう言う。
 私がいつもお参りをさせて頂き、またお電話させて頂きますと、先生が何か言うて下さる。それで自分の心がスッキリする。けどまぁ、昨日なんかは、矢継ぎ早の事でありますし、昨日も大変おかげ頂いたと言うて帰ったばっかりじゃないですかと。それに今何か言うてくれと言うても、何も言いようもない。昨日の御教えを又繰り返して言えば、理屈の上においては、そうですもんね、と言う事になるのだけれども、さあ理屈では、自分の心は割り切れないのですから、おかげを頂かなければ出来る事ではない。
 そしたら、お電話を受けておるうちに、「オブジェ」ということを頂いた。今あのお花をなさる方達が、私どもが見ては何が何やら分からんような、ね、ものを例えば、枯れた木やら鉄くずやら持ってきてから、こうそれを花として、その鑑賞しておられるような、花がございます。あれはオブジェと申しますね。何じゃかんじゃ分からん、けれどもそこに、やはり芸術的な、その鑑賞の仕方があるのであり、またそれを入れた人は、もうそれで自分の心が、楽しんでおられるわけなのである。
 もう実にデリケートと言うたら、こんなにデリケートな事はなかろうような、その心の微妙さと言うものをね、まとめ上げていく時にです、本とにオブジェの花にも似たようなものが、心の中に頂けるのです。私は、その電話を受けてから、とうとうスッキリせんなりでです、先方もスッキリしてならんなりに、本当あの難儀なことだな、私にもう少し、スッキリとしたものが与えれれるものがあったら、有難いんだけれどもと、まぁ思うて電話を切りましたけれども。
 その事を私思いよったら今度は、私の心の方が暗うなって来た。私の心の方が切のうなって来た。そう言う時にです、皆さん本気で和賀心に、ならせて頂く事の精進をなさらなければいけないときです。それをほっておったんでは、そういう心の状態では、おかげは受けられません。そういう状態の時では、私自身がここで、次にどういう大事なお取次ぎさせて貰わなければならないか分からんのに、私自身が言わば切のうなったり、暗うなったりしたんでは、私も助からなければお取次ぎを願う人も助からない。
 そこで精進する。そういうことに精進するということはどう言う様な事だ。そう言う様な心を、私はいい加減にしてはならないと思う。信心させて頂く者はいつも自分の、心の状態というものがです、いわゆる平生心、又は和賀心。和らぎ喜ぶ心。どのような火急な問題に取り組んでおりましてもです、心がイライラもやもや、そういう時に私はその仕事に、手を出してはならない。それは時間的に遅れるかも分かりません。その事が進まないかも知れませんけれどもです。
 そう言う時には、私まず神前に出るような心持が必要だと思う。ね、そして自分の心の中の平生心を、又は、和らぎ喜ぶ心を頂かせて頂く事に、精進しなければいけないと思う。おかげのあるもなきも和賀心だ。私あの精進すると言うのはそういうことだと思うんです。どんなに素晴らしい、御教えが自分の身についておると言うてもです、本当にたったその位の事が、この位の事が心が暗くなったり、イライラしたり、そう言う様な状態の時におかげの頂けるはずがない。
 神様の働きば失うてしもうとるような、状態の時であるから、そう言う時には、まず私心静かに、ご神前にでも向かわせて頂いてから、心のお繰り合わせを願わなければならん。そして精進しなければならん。どういうことに精進したらですね、自分の心の中に和賀心を取り戻す事ができるか、平生心になることが出来るか。私はそういう時にあの、自分を心の上に、改まりをさせて頂く事を一生懸命に思い続ける。
 いわゆる神前に心を向けさせて、神様に心を向けると同時にですね、私自身の改まりのことも一生懸命に思う。その、その事が、神様のお喜びを頂く証拠にです、その後に自分の心の中にスッキリしたものを頂くから、不思議ですね。私精進とはそう言う事だと思う。そう致しましたらあの、ご心眼にね、かたぁいつぼみの梅の花。中開きの梅の花、もう満開になっておる梅の花を、次々と何とも言えん、風情に頂くんです。なるほど辛抱だな。ね。なかには辛抱させて頂いて。
 はぁおかげ頂いてよかった、辛抱しぬかせて頂いて、おかげ頂いてよかったという、花が咲いておるかと思う、次にはその過程であるところの中開きがあり、矢継ぎ早にまた、その辛抱しなければならないようなことが、固いつぼみが、また次にはある。次々と心の中に、梅の花が咲いていくように、梅の花が自分の心の中にほころんでいくように、そこに梅の香りにも似たようなふくいくとした雰囲気の中にです、自分の心が和らぎ喜ぶ心に、ならせて頂けれるお繰り合わせが頂けれる。
 難しい、理屈ばった難しい。聞きよって涙の出るごた、有難い話しと言った様な、また道理の上に、ほんとにお話しを頂かせてもろうて、そんなもんだと分からせて頂くと言うこともあるけれどもです、もう例えて言うならば、信心辛抱と言う事はもうどのくらい。三代金光様の、神信心には辛抱することが一番大切でございます、とこう仰るから、そうだと思うても、なかなか自分の心は晴れやらん。
 けれども、精進することによって、私が、本当にささやかな改まりのことでも、本気でそのことを思わせて頂くことによって、その思わせて頂く事が、神様の心に通う心にかなう。神様はそれと反対に、私の心に交流するものを感じさせて下さる。もう理屈抜きにして、私の心が和らぐ。私の心が平生心に戻る。そして今受けたばかりの電話の、その難儀な問題が、はぁおかげ頂きなさるな、と、またはぁよかとこ通りよんなさるなという、気持が起きてくる。
 自分の心に、いわゆるやるせない、切ない、それではおかげが受けられません。神様の下さるおかげの場を、逃がして仕舞う様な事。おい散らかして仕舞う様な事。おかげのあるもなきも和賀心なんです。ね、ですから、その和賀心をいつもなら、持続し続けると言う事は中々至難。もう道理の上では十分分かりきっておることだけれども、それが分かっておる、信心辛抱する、信心にはこれが一番大事だと言うて、ジーっと辛抱しとるだけで自分の心の中が、和らいでいくということはない。
 そこに精進がある。それはさまざまなことに、精進させて貰うのでしょうけれども、まぁ昨日の私の体験から言うと、はぁ改まりということを、思わせて頂く事に精進する。それだけで私の心が安らぐ。次々と梅の花が咲いていくように、私の心の中に咲いていく。次に硬いつぼみがあっても、それもっとその、辛抱させて頂く内に、中開きになり満開になって、いくのです。そこにまた、うぐいすが来てとまるような、おかげも現れてくるわけなんです。
 皆さん、精進するということを何か、特別なことに、そのせい出さなければならん、と言う事じゃないです。もうお道の信心ばかりは、結局自分の心に取り組むこと。ね、取り組むたってどう言う風にして取り組むのですかと、取り組む、ようが分からん。様な場合もありますけれども、ただ自分の心を本気に、こう見極めさせてもろうて、改まらせて頂くと言う事ならば、私どもの心の中には、もう限りなくあるはずだ。
 そこんところをお詫びさせてもろうたり、本気でその事を改まらせて頂く事を一心に、その事を思わせていて頂き、思い続いさせて頂いておることがです、神様の喜びに、神様の心にかなうから、それと反対に私の心の中に、安らぎの心を送ってくださるのです。私共の、日常生活と言った様なのは、そういうことの繰り返しではなかろうかと。信心生活とはそう言う様な事だ。
 それを信心生活、いわゆる、生活を即信心という、そのことにしていない人はです、それをいい加減なことに、それをしていく。それを言葉に出したり態度に出したり、又はそれを場合には先に求めたり、歓楽に求めたりして、自分の心を晴れ晴れとしようと言う事に、なるほど晴れ晴れ鳴るかも知れないけれども、それでは、身につくところの、徳にも、おかげにもなりはしません。
 信心させて頂く者は、そういう時に、精進しなければならん。精進すると言う事は、改まるということをです、それはいろいろありましょうけれども、改まるということに精進する。そこに有難い心が、まぁ約束されると言う訳ではないですけれどもです、確かに何がなしに、神様が、心の安らぐようなお繰り合わせを、心の上にくださる。そういう時にね、信心を頂いておるということの喜びを又しみじみ感じるもんです。(?おかげ…)。